福嚴寺には立花家家臣や文化人などさまざまな所縁があって眠られてる方々います
幕末-明治時代の武士、柳川藩最後の家老。
天保2年(1831)5月15日生まれ。陽明学をおさめ,池辺節松,横井小楠(しょうなん)にまなぶ。藩財政の再建,軍備の充実など安政の改革をおこなう。明治2年岩倉具視(ともみ)と会見し廃藩置県・藩知事設置を進言した。明治14年(1881)7月24日死去。51歳。本姓は十時(ととき)。名は親雄。字(あざな)は子英。号は胖亭。
1912年〈明治45年〉2月3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日 小説家、作詞家、料理家。
在学中に発表した《此家の性格》で文壇に登場,太宰治,坂口安吾などを知る。また保田与重郎らの〈日本浪曼派〉に参加。《花筐》刊行後応召。戦後も中国を放浪した。その間の体験を綴った《リツ子・その愛》《リツ子・その死》(1950年)で復帰。《長恨歌》《真説石川五右衛門》で直木賞を受賞した。無頼の体験を描いた作品で知られ,執筆20年にわたる大作《火宅の人》は日本文学大賞を受賞した。詩集に《虚空象嵌》がある。
1904年10月17日 - 1957年12月21日 小説家、児童文学者。
小学校教員をつとめながら小説をかき,昭和14年「あさくさの子供」で芥川賞受賞。また児童文学「春の童謡」などをかく。戦後,北原白秋をモデルにした「からたちの花」を発表。交通事故によるけががもとで昭和32年12月21日死去。53歳。福岡県出身。福岡師範卒。本名は藤田正俊。旧姓は堤。
1888年(明治21年)10月22日 – 1968年(昭和43年)1月14日 俳人、医師。
昭和2年糸田村の明治鉱業豊国炭鉱中央病院、13年赤池炭鉱病院、のち田川で炭坑医をつとめる。大正5年頃知り合った種田山頭火の親友として物心両面でよく援助した。昭和25年妻ツネを亡くし、翌年フイと再婚。すずめの俳人として知られ、句集に「雀のゐる窓」「雀の言葉」や遺句集「雀の生涯」などがある。他にフイが脳溢血で倒れた後の「看護日記(十柿舎日記の改題)」。