開創

梅岳山福嚴寺は、はじめは筑前立花山の麓にあった曹洞宗の寺院でしたが、天正15年(1587)、初代柳川藩主・立花宗茂が柳川に城を構えた際、立花家の菩提寺として、ともに柳川に移されました。寛文9年(1669)、3代柳川藩主立花鑑虎により臨済宗黄檗派に転ぜられ、寺名を梅岳山福嚴寺と改めます。

開山には、黄檗山萬福寺2世・木庵から嗣法するまでに至った2代柳川藩主・忠茂の縁により、木庵の法弟である柳川藩出身の高僧・鉄文が迎えられ、延宝2年(1674)に大雄宝殿、禅堂、斎堂、天王殿などの諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が落成しました。

年表

天正3年(1575) 立花山麓(福岡県新宮町)の曹洞宗花谷山神宮寺に戸次道雪の継母 養孝院が葬られ元中2年(1385)からの寺号を立花山養孝院と改名する
天正13年(1585) 9月11日 戸次道雪べっき どうせつ、御井郡北野(現 久留米市北野町)の陣中で没 享年73
  道雪が葬られ、法名「福嚴寺殿梅岳道雪大居士」に因んだ寺号「立花山梅岳寺」に改名する
天正15年(1587) 宗茂が柳川藩主となり梅岳山も立花家の香華所として柳川の地へ移されるが養孝院と道雪の墓は立花城下に残る
元和6年(1620) 宗茂が初代柳川藩主となり曹洞宗梅岳寺は柳川城内の中核に復興する
承応3年(1654) 明より高僧である隠元が幕府の招請に応じて弟子たちと共に来日しインゲン豆、スイカ、レンコン、孟宗竹、木魚、明朝体、原稿用紙、煎茶、普茶料理などを持ち込み日本の文化に多大な影響を与える
寛文5年(1665) 前年隠居した忠茂が隠元の高弟 木庵もくあん性瑫しょうとうと江戸で初めて面会
寛文9年(1669) 忠茂と鑑虎が木庵と木庵の法弟 鉄文道智を江戸屋敷に招き曹洞宗梅岳寺を黄檗派に転じ柳川藩出身の鉄文を迎えて新たに開山したい旨を申し入れる
8月 3代柳川藩主 鑑虎により梅岳寺は臨済宗黄檗派(今の黄檗宗)に転ぜられ寺号を「梅岳山福嚴寺」と改名する
延宝2年(1674) 鑑虎により伽藍整備が進み大雄宝殿、選仏場(禅堂)、禅悦堂(食堂)、方丈などの現在に残る諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が開堂開光される
令和6年(2024) 天王殿の聖観音修復のためクラウドファンディングを実施し目標額を達成
出典 : 立花家資料館編纂「立花忠茂と黄檗宗」. 2024-11-06
reference : Tachibana Museum Yanagawa "Tachibana Muneshige and Obaku sect", 06-Nov-2024
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