福厳寺開山鉄文道智禅師を祀るお堂です。鉄文禅師は1634年(寛永11年)海津村町口(現在のみやま市高田町海津)西原家の次男として誕生しました。11歳の時に天叟寺の俊嶺和尚につき、13歳の時に出家します。21歳の時に長崎興福寺に赴き、隠元禅師に相見、30歳の時に隠元禅師より具足戒を受けます。隠元禅師退隠後は木庵禅師に師事します。1669年(寛文九年)36歳の時に、立花家第4代鑑虎(あきとら)公により福厳禅寺の住持となるよう懇請され住持となります。1674年(延宝2年)には、福厳寺の大雄宝殿、天王殿、禅悦堂、方丈などの諸堂を完成させます。その後、黄檗山内に別峰院、崇勝禅寺、法雲寺、法輪寺などを建立します。1688年(貞享5年)55歳の時に示寂され、福厳禅寺、法雲寺、別峰院、崇勝寺、円鏡寺、法輪寺に舎利を分けて塔を立てられました。
鉄文禅師は黄檗の禅法を柳川地方に布教され、その名声は柳川藩だけでなく、四方に響きわたり、黄檗の禅風を振い興こされました。その立派な行為は梅岳山福厳寺に今もなお馥(かおり)郁(たかく)馨っており、禅師が残された恩沢は人々を霑し、禅師の教えはますます隆んになっております。